新海誠監督の長編アニメーション映画『すずめの戸締まり』、その壮大なスケールと息をのむほど美しい映像に、心を奪われた方も多いのではないでしょうか。
でも、この物語の本当にすごいところは、ただのファンタジー・アドベンチャーじゃないってことなんです。
主人公の岩戸鈴芽(いわと すずめ)が日本列島を旅する「戸締まりの旅」は、まるで日本の「災害の風景」を巡る現代の巡礼のよう。
それは、私たちが忘れてはいけない記憶と向き合い、心を癒していくための、大切な儀式のように描かれているんですね。
物語の軸となる「地震」は、お話を盛り上げるためのスパイスなんかじゃなく、作品全体を形作る骨格になっています。
鈴芽ちゃんが旅の途中で訪れる場所は、過去に大きな災害があった場所。
そこで「後ろ戸」を閉じていくことは、その土地の記憶にそっと寄り添い、未来へ繋いでいくプロセスそのものなんです。
そして、旅のゴールが2011年の東日本大震災の被災地であることは、この映画が現実の、特に私たちの心に深く刻まれた3.11という出来事と、強く結びついていることを教えてくれます。
新海監督が「場所を悼む物語にしたかった」と語っているように、ロードムービーという形を選んだのには、深い意味があります。
ただ場所を移動するだけじゃなく、傷ついた土地を訪れ、そこに生きていた人々の声なき声に耳を澄ます旅。
それぞれの「戸締まり」が、鈴芽ちゃん自身の心の傷と向き合う力になっていくんです。
この映画は、災害と共に生きる私たちに、「記憶とどう向き合い、未来へ歩き出せばいいんだろう?」と、壮大で、とっても深い問いかけを投げかけているのかもしれません。

ただのファンタジーじゃない、現実の私たちの記憶に深く関わる物語だからこそ、こんなにも心が揺さぶられるんですね。
すずめの戸締まり 地震の場所と聖地モデルを徹底解説

物語が始まるのは、2023年9月25日。
鈴芽ちゃんの旅は九州からスタートして、四国、神戸、東京、そしてゴールである東北へと続いていきます。
それぞれの場所で開いてしまう「後ろ戸」は、私たちが知っている日本の風景と、そこで起きた災害の記憶に、深く繋がっているんです。
旅の始まりは九州から!宮崎・大分・熊本の聖地を巡る
物語は、九州の穏やかな港町で幕を開けます。
鈴芽ちゃんの平和な日常が、ここから非日常の世界へと繋がっていくんですね。
宮崎県日南市

鈴芽ちゃんが叔母さんと暮らす港町「門波町(となみちょう)」のモデルになったのが、宮崎県日南市です。
特に、草太さんと初めて出会う坂道から見える港の景色は、油津港(あぶらつこう)がモデルなんだとか。
キラキラ光る海と港の風景が、鈴芽ちゃんの穏やかな毎日を象徴しているようで、とっても素敵ですよね。
大分県・熊本県

鈴芽ちゃんが初めて「戸締まり」をする、廃墟になったリゾート地。
この印象的な場所は、いくつかの実在する場所がモデルになっているようです。
円い形が特徴的な建物は、大分県にある旧豊後森機関庫(きゅうぶんごもりきかんこ)がそっくり!
国の登録有形文化財にもなっているそうで、ノスタルジックな雰囲気が映画の世界観にぴったりです。
廃墟の温泉街の雰囲気は、大分県の湯平温泉(ゆのひらおんせん)や熊本県の湯の鶴温泉(ゆのつるおんせん)など、昔ながらの温泉地の面影からインスピレーションを得ているみたいですよ。
最初の「後ろ戸」が「廃墟」に現れた、というのは、この映画のテーマを考えるうえで、とっても大切なポイントなんです。
ただ不気味なだけじゃなくて、人の営みがなくなり、忘れ去られた場所にこそ、災いの扉は開いてしまう…そんなメッセージが込められているように感じませんか?
新海監督の「場所を悼む」という想いは、この最初のシーンにギュッと詰まっているんですね。
災いを起こす「ミミズ」は、何もないところから現れるんじゃなくて、過疎や不景気といった、今の日本が抱える問題が生んだ「人の記憶が薄れた場所」から現れるんです。

「廃墟」を最初の舞台に選ぶことで、監督は単なるパニック映画ではなく、現代社会が抱える「忘却」という問題に焦点を当てていることを示唆している。
ミミズの発生源を人の記憶と結びつけるとは、実にクレバーな脚本です。
愛媛での出会いと廃校の「後ろ戸」
九州を後にした鈴芽ちゃんは、フェリーで四国へ。
新しい出会いを経験しながら、次の「後ろ戸」と向き合います。
愛媛県

鈴芽ちゃんが乗ったのは九四オレンジフェリー。
愛媛県に上陸します。
八幡浜駅に「#すずめの戸締まり」に登場する椅子が
設置されました🎊🎊更に、八幡浜市や大洲市の
各所に置かれています✨Σ(・ω・ノ)ノ!✨皆様🤗椅子を見つけてSNSに投稿しにいこう🥰#すずめの戸締まり#八幡浜 #大洲 #椅子 #八幡浜駅#JR四国 #八幡浜大洲の戸締まり pic.twitter.com/ve8FmeuKLH
— JR四国営業部【公式】 (@JRshikoku_eigyo) January 12, 2023
映画に出てくる駅はJR八幡浜駅(やわたはまえき)がモデルで、そのリアルな描写に聖地巡礼するファンも多いんだとか。
同い年の女の子・千果(ちか)ちゃんとの出会いのシーンは、西条市にある大谷池(おおたにいけ)沿いの道がモデルになっているそうです。

愛媛で開いた「後ろ戸」は廃校になった中学校。
このエピソードは、昔この地域で起きた芸予地震と関係があると言われています。
舞台が廃リゾートから廃校に移ったことで、物語のテーマがさらに深まっていきます。
学校って、ただの建物じゃなくて、地域の思い出がたくさん詰まった場所ですよね。
子どもたちの笑い声や、未来への希望…。
そんな大切な場所が廃墟になるというのは、地域にとって、とても大きな喪失を意味します。
ここでの「戸締まり」は、一つの建物だけじゃなく、地域コミュニティの心の拠り所を悼む行為へと、スケールアップしていくんですね。
神戸の廃遊園地と阪神・淡路大震災の記憶
四国から本州へ渡った鈴芽ちゃんが次に向かうのは、かつて大きな震災を経験した街、神戸です。
兵庫県神戸市

鈴芽ちゃんは大鳴門橋(おおなるときょう)を渡って神戸へ。
災いの扉が開いたのは、廃墟になった遊園地「神戸ゆめの国」。
この遊園地のモデルは、神戸市にある神戸おとぎの国(神戸フルーツ・フラワーパーク大沢内)です。


ミミズとの激しい戦いが繰り広げられた観覧車は、ここのものがそっくりそのまま描かれているんですよ。
鈴芽ちゃんを助けてくれるスナックのママ・ルミさんが働く商店街は、東山商店街と二宮商店街を組み合わせたものだそうです。
この神戸のシーンは、1995年に起きた阪神・淡路大震災の記憶と深く結びついています。
新海監督は、震災を乗り越えて力強く生きる神戸の人々と鈴芽ちゃんを出会わせたかった、と語っていて、この場所には特別な想いがあったんですね。
本来は笑顔と幸せで溢れるはずの「遊園地」に災いの扉が現れるというのは、すごく印象的なコントラストになっていますよね。
私たちが当たり前に感じている幸せな場所が、いかに脆いものかを象徴しているようです。
ここはただの廃墟じゃなくて、「喜びの廃墟」。
この設定は、観ている私たちに幸せの儚さを突きつけます。
阪神・淡路大震災の記憶が刻まれたこの街で戦いを描くことで、新海監督は、過去の痛みと、ルミさんのような人々が紡いできた現在の力強い営みとの対話を描いているのかもしれません。
東京の地下と関東大震災の巨大なミミズ

旅はついに日本の中心、首都・東京へ。
ここで鈴芽ちゃんは、今までで一番大きな災いと向き合うことになります。
東京都
東京でのクライマックスの舞台は、御茶ノ水駅のあたり。
特に、鈴芽ちゃんがミミズと戦うシーンで描かれる聖橋(ひじりばし)は、関東大震災の後に復興のシンボルとして架けられた橋で、とても象徴的な場所なんです。
そして、巨大なミミズが出てくる「後ろ戸」は、なんと日本の中心ともいえる皇居の地下深く、牛ヶ淵(うしがふち)の辺りにあるとされています。
このエピソードは、1923年の関東大震災がモチーフになっていると考えられています。
日本のど真ん中、皇居の真下に最大の脅威を置いたのは、すごく象徴的なシーンだと思いませんか?
そこからミミズが現れるということは、この国の歴史やアイデンティティの中心に、常に災害の危険が潜んでいることを示しているようです。
これによって、物語は地方の問題から、国全体の危機へと一気にスケールアップします。
関東大震災の記憶をここで呼び覚ますことで、ファンタジーの世界と、首都の歴史に刻まれた大きな災害を結びつけ、この国の未来が「戸締まり」にかかっているんだと、私たちに伝えているのかもしれませんね。
旅の終着点、東北と東日本大震災

鈴芽ちゃんの長い旅は、ついに彼女の故郷であり、すべての始まりの場所、東北地方で終わりを迎えます。
岩手県・宮城県
物語のクライマックス、鈴芽ちゃんの故郷の風景は、東日本大震災で大きな被害を受けた三陸沿岸の地域がモデルになっています。
特に心に残るのは、岩手県山田町にある三陸鉄道・織笠駅(おりかさえき)。
この駅は津波で流された後に再建された駅で、鈴芽ちゃんと草太さんが別れる大切なシーンで登場します。
他にも、震災後に作られた織笠川水門や山田湾防潮堤といった建物が、復興への道のりを象徴するように描かれています。
旅の途中で立ち寄る道の駅は、宮城県気仙沼市にある道の駅「大谷海岸」がモデル。
映画に出てきたソフトクリームやパンも実際に買えるんですよ。
この東北での一連のシーンは、2011年の東日本大震災とまっすぐに向き合う、物語の核心部分です。
ここで何より大切なのは、映画が描く東北が、ただただ悲しい場所としてではなく、再建への歩みと記憶が共存する風景として描かれていることです。
新しくなった織笠駅や巨大な防潮堤は、自然の大きな力と共に生きていこうとする人々の強い意志の象徴のように見えます。
新海監督も、再建された織笠駅を見て「人の生活の力強さ」を感じたと語っています。
最後の「後ろ戸」は、鈴芽ちゃんの個人的な悲しみの場所である自宅の跡地にありますが、それは同時に、力強く復興を進める街の中にあります。
この映画は、常世(とこよ)の燃え続ける風景が象徴するような取り返しのつかない喪失を認めながらも、現実の世界で未来に向かって歩むことを応援してくれているんです。
鈴芽ちゃんの旅は、絶望ではなく、現実に根ざした、ちょっぴり切ないけれど温かい希望と共に終わりを迎えるんですね。
作中地震の発生順とモデルになった地域・災害まとめ
鈴芽ちゃんの旅は、まるで日本の災害の歴史を辿っているかのようです。
ここで、映画に出てきた地震の順番と、モデルになった聖地、そして関係する実際の災害を一覧で見てみましょう。
| 発生順 | 場所(作中) | 聖地モデル(実在) | 関連する主な史実の災害 | 物語上の役割 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 九州・門波町の廃リゾート | 旧豊後森機関庫、湯平温泉 | 熊本地震 (2016年) – テーマ的関連 | 物語の導入、日常の崩壊と「場所を悼む」テーマの提示 |
| 2 | 愛媛の廃校 | (複合的モデル) | 芸予地震 (2001年) | 旅の本格的な始まり、他者との出会いと協力 |
| 3 | 神戸の廃遊園地 | 神戸おとぎの国 | 阪神・淡路大震災 (1995年) | 中盤のクライマックス、再生した街で過去のトラウマと対峙 |
| 4 | 東京の地下 | 皇居周辺・牛ヶ淵 | 関東大震災 (1923年) | 最大規模の脅威、国家存亡の危機と草太の自己犠牲 |
| 5 | 東北・すずめの故郷 | 岩手県山田町、宮城県気仙沼市など | 東日本大震災 (2011年) | 物語の終着点、個人的トラウマの克服と未来への再生 |
場所の記憶と災害の歴史:「後ろ戸」が象徴するもの
どうして『すずめの戸締まり』は、これらの特定の災害を旅のルートに選んだのでしょうか。
それはきっと、ファンタジーという物語の力を借りて、日本の現実の地震の記憶と対話しようとしているからなんじゃないかと思います。
災いを引き起こす「ミミズ」は、昔から日本で地震を起こすと信じられてきた巨大なナマズや竜を思い出させますよね。
これは、人の力ではどうにもならない地震というものを、物語として理解しようとしてきた、日本の文化的な伝統に繋がっているんです。
でも、映画の「ミミズ」はただの怪物じゃありません。
地震の巨大なエネルギーの化身であると同時に、その土地に生きた人々の悲しみや痛みの象徴でもあるように感じられます。
「後ろ戸」が人の記憶が薄れた場所に開く、というのは、忘れ去られた土地の悲しみが噴き出してしまう、ということなのかもしれません。
「閉じ師」が行う「戸締まり」の儀式では、その場所にいた人々の営みを思い出し、「いただきます」と声をかけます。
これは、土地の悲しみを鎮め、記憶を大切にするための儀式なんですね。
新海監督が最初に「場所を悼む物語」を作りたいと思っていたことを考えると、この解釈はしっくりきます。
忘れられることが、その場所を弱くしてしまうのだとしたら、「ミミズ」は自然の力だけじゃなく、忘却が生んだ悲しい結果なのかもしれません。
この映画には、記憶そのものが、私たちの心を支える大切なもので、それが失われると、現実の足元まで揺らいでしまうという、深いメッセージが込められているように感じます。
なぜ東日本大震災を描いたのか?新海監督の意図と覚悟
新海監督が『すずめの戸締まり』で東日本大震災という現実にまっすぐ向き合った背景には、強い想いと社会に対する責任感があったんですね。
監督は、震災の記憶がだんだん薄れて、特に若い世代にとっては「教科書の出来事」になってしまうことへの「焦りのような気持ち」があったと、何度も語っています。
ご自身の娘さんにとっても震災は直接知らない過去の出来事。
「今描かなければ、遅くなってしまう」「今ならまだ、記憶を繋ぎとめられるんじゃないか」という強い想いが、この映画を作る大きな力になったそうです。
監督は、『君の名は。』では彗星という形で災害を表現し、『天気の子』では異常気象を扱いました。
そして、11年という時間を経て、『すずめの戸締まり』でついに東日本大震災そのものに触れる「覚悟」ができた、と話しています。
でも、その重いテーマを、たくさんの人が受け止められるように、ドキドキハラハラするロードムービーと、素敵なボーイ・ミーツ・ガールの物語という、エンターテインメントの形で優しく包み込んでくれているんです。
この作品は、『君の名は。』『天気の子』と合わせて「災害三部作」と呼ばれることもあります。
この三部作は、3.11という大きな出来事に対して、新海監督が映画作りを通してどう向き合ってきたか、その心の軌跡を表しているようです。
『君の名は。』では、ファンタジーの力で悲劇を「なかったこと」にしたい、という強い願いが描かれました。
『天気の子』では、変えられない現実の中で、個人の選択を大切にする姿が描かれました。
そして『すずめの戸締まり』は、その最終章。
過去を消すんじゃなくて、ちゃんと向き合って、喪失を受け入れた上で、その記憶と一緒に未来へ生きていく道を探す物語なんです。
まるで、社会全体が大きな悲しみを乗り越えていくプロセスを、丁寧に描いているかのようですね。
「トラウマになる」という批判と向き合う:震災描写を巡る賛否両論
『すずめの戸締まり』は、そのテーマがとても重いものだからこそ、公開されてから、たくさんの意見が飛び交いました。
特に、リアルな地震の揺れや緊急地震速報の音は、被災した経験のある方にとってはフラッシュバックを引き起こす可能性があり、「トラウマになる」という切実な声も上がりました。
映画を作る側も事前に注意を呼びかけていましたが、それでも「もっとはっきりと3.11を扱っていると知らせるべきだった」という意見もありました。
現実の悲劇をエンターテインメントとして描くことの難しさを、改めて考えさせられますね。
一方で、同じように被災を経験された方々を含め、多くの人からこの映画を肯定的に受け止める声も上がりました。
「こういう作品こそが、震災の記憶が風化するのを防いでくれる」「次の世代に語り継ぐために必要だ」という意見です。
また、「被災者は辛いだろう」と周りが一方的に決めつけて、腫れ物のように扱うのは違うんじゃないか、という強い声もありました。
被災した経験は人それぞれで、複雑な想いを抱えながらも前を向いて生きている人々にとって、この映画は誠実な対話の試みとして届いたんですね。

でも、被災された方々の気持ちを、経験していない私たちが勝手に「こうだろう」って決めつけちゃうのは、違うのかもしれないですね。
すごく難しい問題だけど、この映画がきっかけで皆が考えること自体に意味がある気がします。

この賛否両論こそが、監督が冒したリスクの大きさ、そして作品が持つ力の証明でもあります。
社会として記憶を継承することと、個人の心を守ること。
どちらも大切だからこそぶつかってしまう。
監督は、エンターテインメントという手法で、この社会的なジレンマのど真ん中に切り込んだ。
その覚悟は評価すべきでしょう。
この激しい賛否両論は、映画が失敗だったということではありません。
むしろ、それだけこの作品が力を持っている証拠なんです。
この議論の根っこにあるのは、「社会全体で記憶を語り継ぐべき」という想いと、「個人の心を傷つけないように守るべき」という想いの、どちらも譲れない大切な気持ちのぶつかり合いなんですね。
新海監督の映画は、その痛みを伴う交差点に、まっすぐに立っています。
ある人にとって必要な記憶の呼び覚ましが、別の人にとっては耐えられない苦痛になることもある。
この映画が、すべての人を満足させる「正解」を出さないのは当たり前なんです。
むしろ、この映画がくれた、難しくても、でも絶対に必要な対話の時間こそが、私たちが3.11という出来事と向き合うための、現在進行形の「戸締まり」なのかもしれません。
すずめの戸締まり 地震の場所と物語の結末
『すずめの戸締まり』というタイトルには、二つの意味が込められているんです。
一つは、日本列島を旅して、災いの扉を物理的に閉じていくこと。
もう一つは、鈴芽ちゃん自身が心の奥に閉じ込めていた、幼い頃の辛い記憶の扉を、そっと閉じていく内面の旅です。
映画の最初に示された「場所を悼む」というテーマは、物語の終わりには、とても個人的な「人を癒す」という行為へと繋がっていきます。
日本中の土地を鎮める壮大な旅は、最終的に、鈴芽ちゃんが自分自身を癒し、救うための力を得るための旅だったんですね。
クライマックスで、17歳になった鈴芽ちゃんは、常世で4歳の自分自身に出会って、こう語りかけます。
「あなたはちゃんと、光の中で大人になっていく」。
そして、「未来なんて、怖くない」と。
過去の自分にかけたこの言葉は、未来の自分への約束であり、喪失を乗り越えて生きていくことへの、力強いエールになっているんです。
この映画が伝えてくれるのは、悲しい過去を忘れることでも、それに縛られ続けることでもありません。
過去を勇気をもって見つめ、悼み、その記憶を抱きしめながら、未来に向かって歩き出すことの尊さです。
国全体の癒しと、一人の人間の癒しは、切り離せないものだということを、この物語は教えてくれているようです。
一人の少女が心の傷を乗り越える物語を描くことで、新海監督は、日本という国がその傷跡と共に生きていくための、一つの希望の道筋を示してくれたのかもしれません。
散らばってしまった可能性の扉を一つ一つ丁寧に閉じていくことで、私たちは初めて「次に進むべき新しい場所」へと、歩み出すことができるんですね。